昭和39年12月29日朝の御理解
昨夜の御理解に、元気な心で信心せよというご理解を頂いた。元気な心で信心せよというのは、どういうような信心をもって元気な心というのかと。
「?」善導寺の原さんがここへ出て見えてからお届けされるんです。
「先生今日のご理解頂いきよりまして、確かにそうでございます」と。「こちらが本当に元気な心で居れば、そこが実に楽に通りぬけられます」と言うことをお届けされましたけれども。
確かに元気な心というものは、そういうものでなからにゃいけないですね。
そのー「そうです原さん」っち、お届けさせてさせて頂きよる時ここで私が頂くことがですね。大きな蓮根の節を頂くんですね。言わばあの、節目というのは、もう確かに折れやすいところ。同時にあそこは役に立たないところ。黒いひげのようなものがあって、例えばあそこを使いますに致しましても、あそこだけ切って捨てなければならんほどにいらんこと。いらんところ。私どもの人生にはね、そういういらんことばっかり沢山あるのです。いらんもん。黒い、汚い。何にもならない。ところがです。その、本当の必要なおかげを頂くために、ここはやっぱり通りぬけなければ次のおかげにはなってこないということ。神様が例えば蓮根食うて下さるようなおかげなってこないということ。
ですから、むしろ元気な心で受けていければ「?」と、これは私が以前からというんですかね。もう修行中とでもいい、以前からこれは私の座右の銘でした。
机の横にそれを張っておりました。「節を元気な心で受ける人は伸びる」とある。
お互いに伸びたいのです。より太く、大きく伸びたいです。だから太く大きく伸びたいという。いうなら神様に蓮根食うてもらんならんおかげを頂きたいと。
ところがその節をおろそかにする。
その節でへとへとになる。「あー節というのは、もう本当に、そのー嫌なことだ」と。
いらんもののように思う。
それではね。おかげは受けられんのですよ。
「?」本当にこちらがその決心がついておればね楽だということ。元気な心とはそういうような心を元気な心というのだなと思う。
昨日夕方私、ちょうど久保山先生が奉仕しておりました。ちょうどお参りも閑散時ですから、私はそこのストーブのところで、物思いにふけってました。
まぁ物思いというよりも勝彦のことを一生懸命思いよりました。そしたらあの、妹が帰ってまいりましてから「昨日はこんなことじゃった」というて私に話すんです。
長男の中学生の同窓生の人達が皆東京やら、あちら行っておる人たちが皆こちらに帰ってきております。五人の方が移り代わりに勝彦に電話をかけられておるということですね。その、善導寺の「?」。それで、同窓会の誘いなんです。ですから、その親しい仲には、もう本当に兄妹のように仲良くしておる人達がおりますが、とにかくその「?」なって話をしておるけれども、こと同窓会ということになったら、もうそれこそ、さぁー「?」がなかったっち、もう絶対こちらへこれだけは譲られはできんからと言って断っておったということを聞かしてもらいましてですね、元気な心とはこういうものじゃなかろうかと私は思うた。「さぁーそんなら親先生にお伺いしてみろう」。
私は断食中に、いろいろ進めます。ところが自分の心の中では何日かの断食、まだ半ばである。「?」その目の前に食べ物を並べられたら、もうそれこそ「?」くらいにある。
そういう時に「神様誰々さんが食べろと言いなさいますけん、食べても、そんだもんでしょうか」といったような、例えばお伺いをする。まぁ神様がいかんといいなされれば食べん。
そういう時に神様がいかんと仰ったのは「?」ないです。
こういう心は元気な心じゃないです。その時神様が私に教えて下さることは「伺う心は食べたい心じゃ」と仰って頂きました。だから、誰がなんと言うてもです。一週間と。
十日間と例えば日切って、例えば一つの修行でもさせて頂いておると致しましたらです。それはやはり決然として、さぁそんならいっぺんお伺いでもしてみろうと言ったようなもんではなくてですたい。とにかく、お互いが楽に楽な方を取ろうとしておる心が「?」中にあるからです。原さんが言われるのは「もう楽はせんぞ」と思い込ませて頂いたら楽だとこういうのである。元気な心で信心せよと。いつも頂いております。
ね、なるほど、朝参りでもするからには、元気な心がなからなけらば朝参りもできません。「?」修行に取り組む。いや、これが成り行きが求めるところの、神様が求め給うところの修行とてもなるとです。いよいよやはり至難である。難しい。けれどもそれを受けきらせてもらうところの「?」というものがです。元気な心を以ってなされておるなら、でけておるならばそこを楽に通りぬけることができる。
折れるはずのものが折れない。いらないものであるところが、いらないものどころではない。ここを通らせて頂くからこそ初めてこれが頂けれるんだというです。確信がも持ててくるようになる。
してみると。そのいらんこともまた、楽しゅう受けられるようになる。いわいる原さんじゃないけれども、楽に受けられるようになるということ。普通の人なら悪いところを通られておられる。本当に術ないことじゃろうと思われるようなことがです。
楽しんで楽にです。決然としてそこが通り抜けられて初めて私は神様が蓮根食うて下さるようなおかげというおかげが頂けるのじゃなかろうとこう思う。
皆さんも大抵元気な心で信心しておると思うておられるかもしれませんけれどもです。
またしておられますけれどもです。もういっぺんそこを再検討してみてです、果たして楽しゅう楽にここを通りぬけておるかどうかということをです。確かめていかなければいけない。元気な心で信心せよと、これは昨夜に続いての御理解なんですけれども、私もそれを、はぁー本当に「さぁ!元気な心で信心せな」とはいつもいっておるのですけれども、その元気な心とはです。さーやるぞ!というもの、まーいうなら空威張り的なものではなくてです。さーがんばるぞっと言ったようなものだけではなくてです。
もう、がんばらんですむような心なのです。言うなら。
ね、例えば「?」さんあたりがもう何年か甘いものを断っておられます。
誰がなんと言うても、頂かんとこう決めきっておられます。ですから、大体いうたら甘いものはもうとにかく好きで好きでたまらんのだけれども、好きでたまらん甘いものを断たして頂いておられます。そういう体験をもっておられるから、そこが昨日、それを思いきらせて頂くとか、思い込ませて頂いていくこと。
決然とした気持ちでその修行に取り組んでおればです。そこが楽だと、こういう体験も原さんにして「?」と私は思うです。ね、好きなものを目の前にだされた。「あー神様が頂いてよかっち言いよんなさるとかもしれん」。どんなもんでしょうか。
お伺いする心は食べたい心だということなんです。ね、これで例えばシブシブ今食べたいけん「?」から、「?」実にじゅつないということ。ね、じゅつないといったのではもう元気な心ではないということ。ね。例えばですよ、そういうような事をね、我を通すとかね意地を通すと、そういうものであってはなりませんですね。例えるならこれは、なら勝彦の場合でもそうです。ね。勝彦があんまり「?」なら「あんた行ってこんの」っち例えば親先生が仰ったといたしましょうか。「いや、それは行きません」これは私は我だと思います。例えば勝彦が外出しないということ。親先生の御用以外に外出しないということ。それで「 ? 」時にこちらでご相談した時に「行けん」というて断られた。
だから親先生の気持ちは本当に人情じゃなくて神情だと私は思います。
ですから、もう金輪際こちらからお願いをしたりお伺いをしたりしてからは帰らんぞ。出らんぞ。とこう勝彦が決めこんどるわけなのです。だから例えば親先生が「さぁ行け」とおっしゃっておる。「いーや私は…」これは我です。そこんところを間違えんようにしにゃいけんと思うんですけどもね。おかげ頂きますように。